生命科学専門部会報告書

要 約

 生命は、地球の誕生後8億年足らずで誕生し、その時以来今日生きる喜びを享受している私達に至るまで、40億年近くにわたってあらゆる天変地異を乗り越えて絶えることなく連綿と続いてきた驚くほど頑丈なシステムでもある。この頑丈さは、次々と分子は変わっても細胞は維持され、細胞は死んでも次々と更新することによって個体は維持され、個体は死んでも生殖によって種は維持され、種は絶滅しても種形成によって生命というシステムは維持されるというように、要素・構成員の絶え間ない入れ替えによって維持される脆弱にして頑丈なシステムである。生命の世界は地球のごく表面の薄皮一枚に限られており、仮に両手で地球を保持することができたとしても肉眼ではほとんど認識できないほどの厚さに過ぎない。また、地球の重さが成人のそれ程度であるとすると、この世に存在するあらゆる生物を合わせても細い睫毛一本にも及ばないほどにしかならず、生命の世界は物理量としてはまことに微々たるものにすぎない。しかし、大気中の酸素分子は生命活動の結果生じたものであることからも明らかなように、生物は地球表面の物理化学的な性状を劇的に変えてきた。逆に、環境の変化は進化を促し、大気中の酸素の増加は、猛毒であった酸素を手なずけ、有機物を完全に酸化してエネルギーを効率よく取り出す生物の進化をもたらした。

 生命の誕生から、遺伝情報の担い手であるDNAを収納する構造すなわち「核」を持った生物が出現するまでに10数億年、多細胞生物が出現するまでにはその後さらに10億年ほどもかかっているが、ホモ・サピエンスは高々20万年の歴史しか持たない。このような進化の歴史を通じて生物は多様化し、睫毛一本の世界の中は数千万とも数億ともいわれる「種」に分かれており、驚くほど多彩なものとなっている。物理量としては微々たるものに過ぎない生物の世界が、これほどの多様性を生み出していることこそ、生命現象においてもっとも驚くべき事実であるとすら言われている。生命の世界は、この多彩な生物が複雑に絡み合って成り立つ極めて複雑なものであるが、その複雑さは、一個体や一細胞についても言えることで、生命世界は本質的に複雑なものである。

 基礎生物学の立場から見ると、ヒトは非常に「異常」な生き物で、体の外に情報を蓄積し、時間と空間の制約を超えて情報を伝達・共有することのできる唯一の生物であり、積極的に教育をする唯一の生物でもある。そのような能力がもたらしたことの一つが、異常な個体数の増加で、ホモ・サピエンスの誕生以来、現在までの総積算人口の5%以上が現在生きていると推定されているが、個体数がこういう増え方をしている生物種はヒト以外には未だかっていない。この間、わずか約8万年ほどの間に歩き歩いてアフリカから南米の先端まで、人口を増やしながら全世界に広がったわけである。その結果として、今や環境問題という言葉を耳目にしない日はないほどに、地球はかつてない深刻な状況に置かれている。このような危機的な状況の中で、生きているというのはどういうことであるのかを正しく理解し、生命系全体の存続に思いを致すことなしには、人類の存続もまた成り立たなくなるのでないかと危惧されている。生命科学専門部会では、このような認識から生物の世界が進化を通じてどのようにしてできてきたのか、細胞、個体、生物社会、生態系・生物圏はどのようにして成り立っているのか、ヒトという生物の特徴である脳と心、文化と教育(非遺伝情報の創出と継承)、食と健康の確保(農耕と医療)、生命の倫理(個人としての倫理と生物種としての倫理)についての基本的な理解を持つことが、21世紀に生きる人々に必要な生命科学のリテラシーであろうと考えている。